知ってはいけないパチンコの闇×朝鮮×換金×ヤクザ×警察

パチンコ店換金問題

■何故パチンコ店は、三点方式という名の元に民間賭博が黙認されるのか?

パチンコの歴史を丁寧に調べていくと良いか悪いかは、別としてとても複雑で奥が深いようです

パチンコと第二次世界大戦は、切っても切り離せない関係にあります

第二次世界大戦は、1939年から1945年までの6年間続きました

ドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営

VS

イギリス、ソビエト連邦、アメリカ、中華民国などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の巨大戦争

1939年ドイツがポーランドに侵攻(第二次世界大戦開戦)

1940年フランスがドイツに降伏

日独伊三国軍事同盟 (ドイツ、日本、イタリア)

1941年アメリカが武器貸与法を成立させイギリスなどを支援

ドイツがソ連へと侵攻開始

日本が真珠湾を攻撃(これによりアメリカ参戦)

1942年ミッドウェー海戦にて日本軍敗北

1943年スターラングラードでドイツ敗北

連合軍、シチリア島に上陸

1943年9月【イタリア】無条件降伏

1944年 連合軍、ノルマンディーに上陸

1945年5月【ドイツ】無条件降伏

1945年8月広島、長崎に原爆投下

【日本】無条件降伏(ポツダム宣言で9月2日に完全終焉)

第二次世界大戦終焉直後

ルーズベルトによってカイロ会談2回目が開かれた。(アメリカ・イギリス・中国)

F・D・ルーズベルト、チャーチル、蒋介石(しょうかいせき)の米英中三国首脳会談

アメリカは世界世論に広島の原爆を正当化する為に日本を非難する必要があったがアメリカは歴史上奴隷制度があり、

差別国家であったので日本を非難するのに都合が悪かった

アメリカにとってウイークポントになってしまう奴隷制度に目を向けられない為に

日本は、台湾人・朝鮮人を奴隷にして搾取していたと物語を作り上げて日本は、侵略国家だと繰り返し宣伝を行った

この物語を踏まえて日本の統治政策がGHQ(マッカーサ)によって行われる事になるが

その時に日本にいる在日台湾人・在任朝鮮人にマッカーサは、【今日は奴隷解放の日】だといった

台湾人朝鮮人は奴隷から解放された・今や我々は連合国民だ【戦勝国民】だと言い

我々を奴隷扱いした日本に対して十分にその罪を理解させる義務があるといい

在日朝鮮人連盟という、今の民団、総連の母体をGHQの指導の下で結成された

後にサンフランシスコ条約で明らかになった内容によれば日本人は、戦勝国兵隊に対して逮捕権・裁判権・を持たない

新聞コードでも連合国を非難してはならないという密約を交わしていた

GHQは、戦勝国民である

在日台湾人朝鮮人に対して戦勝国民だと言った事で日本政府は、最大限の経緯を払う必要性が生まれた

それがきっかけとなり朝鮮人による残虐な事件が数多く発生する事になる

 

■1945年(昭和20年)直江津駅リンチ殺人事件

3名で列車の窓を割って侵入した人物を注意した所【朝鮮人に向かって生意気だ】とスコップで殴り殺された

 

■1946年(昭和21年)富阪署事件

連続拳銃強盗事件の容疑者として在日朝鮮人3人を逮捕した

富阪署にトラック2台で80名が乱入して留置中の在日朝鮮人の即時釈放を要求し中にいた容疑者を連れ出し逃走した。

 

■下山総裁事件

日本が連合国の占領下にあった1949年(昭和24年)7月5日朝、国鉄総裁下山定則が出勤途中に失踪

翌7月6日未明に死体となって発見された

 

■1948年(昭和23年)阪神教育事件

大阪府と兵庫県で発生した在日朝鮮人と日本共産党による民族教育闘争

 

■1945年(昭和20年)生田署事件1回目

■1946年(昭和21年)生田署事件2回目

岡山市内にて7人組による拳銃強盗事件が発生しており、強盗犯を追って岡山県警の捜査官が神戸市まで出張にきていた

50名を超える朝鮮人の暴徒が「岡山の刑事を出せ」と叫びながら署内に侵入

翌年1946年1月9日、三宮ガード下で賭博団(国籍未詳)が検挙されたことを受け40人の朝鮮人が犯人の奪還を目的に再度署内に侵入した

この混乱の地に居たのが田岡一雄という男であった

この出来事から田岡一雄は、任侠道により立ち上がる

「山口組三代目 田岡一雄自伝」より

敗戦の報に茫然自失する市民とは対照的に、これまで過酷な労働で軍部から抑圧されてきた第三国人たちは欣喜雀躍とし略奪、

報復の火蓋をきったのである

その日の午後七時

徒党を組んだ三国人は国鉄深川駅構内の貨車を襲って配給物資を強奪

これを皮切りに市内随所で襲撃略奪事件を起こし、

婦女子を暴行し、わがもの顔に跳梁しはじめた

終戦当時、国内には二百万以上の三国人がいたが、とくに兵庫に多く、昭和一八年に一三万五千人

四八都道府県の七%強を占め、大阪、東京につぐ三位という勢力をもっていた

略)

三国人たちは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街をのし歩いた

通りすがりの通行人の目つきが気に食わないといっては難くせをつけ半殺しにし、

無銭飲食をし、白昼の路上で見境なく集団で婦女子を暴行する

善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた

彼ら不良三国人は旧日本軍の飛行服を好んで身につけていた

袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、肩で風を切って町をのし歩いた

腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を引っさげ、略奪、暴行をほしいままにした

 

警官が駆けつけてきても手も足も出ない

「俺たちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人が何をいうか」

警官は小突き回され、サーベルはヘシ曲げられ、 街は暴漢の跳梁に無警察状態だ

 

昭和二〇年八月末、わたしは所用の帰途、女の悲鳴をきいた。人通りもすくない東山病院の裏手である

白熱の太陽がキナくさい焼跡に照りつけていた

一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った

途中で四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた

「どないしたんや」

「おかあちゃんが、おかあちゃんが」

少女はわたしに泣きじゃくりながらしがみつく

この世のものとは思えぬ女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。

「ここにいるんやで。ええな」

私は少女をその場において一目散に走った

少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた

飛行服の、三国人の男たちだった

彼らは不適な薄ら笑いで女の手足をおさえつけ、一人がその上に乗っている

女は狂ったように絶叫していた

 

<汚ねえ・・・・>

うめくと、わたしは遮二無二彼らに突進していった

※後に現場に居た者の証言では、田岡はその男達2人の目玉を抉り取り、逃げ出した3名が置いていった拳銃を腹巻に入れて後を追ったという

 

昭和二一年二月、神戸生田署の岡政雄巡査部長が彼らに拉致されて暴行殺害され、同年四月

須磨署佐藤進巡査部長がやはり彼らの手によって射殺された

そればかりではない、警察の威信を根底からくつがえす不祥事さえもちあがった

すなわち不良三国人三百余人は兵庫警察署を襲撃し、署長はじめ幹部署員たちを人質として電話指令交換室を占拠したのである

山口組の初代は山口春吉(1881年~1938年・停年57歳)

山口春吉は、淡路島の漁師だったが見切りをつけて神戸に労務者として移住

港湾荷役に従事して山口組を創設

 

■1948年(昭和23年)浜松事件

当時静岡県浜松市の闇一を在日朝鮮人が牛耳りはじめており

浜松市警の巡査が賭博の現行犯で朝鮮人を逮捕しようとしたところ、返り討ちにあって負傷する事件が発生。

 

当時の警察官は、GHQより拳銃の所持を許されておらず、武器は警棒かサーベル

そんな事から逆に人質にされ、殴り殺されはじめたが警察は、中々手が出せずにいた

 

元々、闇市は的屋の関東霊岸島桝屋一家分家小野組(小野近義)という任侠集団が押さえていた

小野組は、警察管を救出して近くの病院に収容、病院周辺を警護して朝鮮人の来襲を阻止するなどの活動を行っていた

朝鮮人が小野組組長宅を襲撃したことで、朝鮮人・小野組・浜松市警の三つ巴の抗争が勃発した

小野組は直ちに報復すべく会合を開いたが、朝鮮人はその会合場所を襲い銃撃した

朝鮮人は「朝鮮進駐軍」を結成し、これまで以上に、殺害、強盗、暴力、強姦事件などの不法行為が頻発、闇市を支配しグングンと勢力構造を拡大していた

GHQ(マッカーサ)も流石にこれを遺憾として、台湾、挑戦人は、戦勝国民にあらず

【三国人である】と発言しており、日本警察は、GHQの後ろ盾の元

浜松市警も抗争を鎮圧するために出動したが、朝鮮人は伝馬町交差点でこれを迎えうち警察との間で銃撃戦となった

5日以降の数日間の戦闘で死者数人・負傷者約300人を出した

浜松市警は岐阜軍政部にMPの出動を要請し400人のMPが浜松に派遣されたことで漸く沈静化した

(Military police(MP))=国家憲兵=軍警察(ぐんけいさつ)とも呼ばれる

後に小野組に対して浜松市民から義捐金が出ている

■結果的には、アメリカが作り出した物語である、強制連行・朝鮮半島奴隷制度の贖罪として【特別永住権】を渡す事になる

その後、韓国・台湾に対して日本の税を長期に渡って投資し、大型インフラ鉄道・港・農業などを整備する事になる

パチンコのルーツといわれているのはコリントゲーム

元々は欧米で発祥し、日本には大正の末期から昭和初期に輸入されたと言われています

遊び方はスマートボールの様に弾いて遊ぶのだが、1銭銅貨弾いて遊ぶ遊技機が人気を博した

しかし1銭銅貨には皇室の紋章が入っていた為、銅貨を遊技機に使用してはいけないと禁止令がでた

 

昭和5年

名古屋で日本初となるパチンコ店が営業許可を取得し営業を開始します

 

昭和12年

日中戦争が始まりパチンコ店の新規営業が出来なくなります

 

昭和15年

パチンコ台の製造が禁止となる

 

昭和16年

景品としてタバコの提供が禁止となり、代わりに入浴券や電車の回数券が提供される

 

昭和17年

パチンコ自体が全面禁止となる

 

昭和20年

戦争が終わると軍事用の7/16インチ(11.11mm)のベアリング球が必要なくなり大量に放出されパチンコ用遊技球に流用される

 

昭和36年

換金システムの原点となる大阪方式が府内でスタート

 

戦後の昭和20年~換金システムを作り出す昭和36年までの間に三国人と日本人による、熾烈を極める紛争があった訳です

占領軍に手足を縛られて動きが取れない日本人に対して「戦勝国朝鮮」を名乗って駅前などの一等地を略奪してパチンコ店を進出させ、違法賭博を行っていた

三点方式誕生秘話

★POKKA吉田1971年8月5日生れ

大阪府出身、神戸大学経済学部中退

パチンコ業界紙記者を経て2004年よりフリーランス

10数年前に出版された本の中で三点方式は、大阪府警・任侠団体(ヤクザ)・ホール経営側(三国人)の間で作られたと書かれています

歴史をよく見た場合、各地の警察と任侠団体VS三国人の争いであり

・警察は、管理側へ

・三国人は、パチンコメーカー&パチンコホール経営側へ

・任侠団体は、換金側へ

これで争いを避けられたので国もこの民間合法賭博を黙認しています

 

しかし、月日が流れ、平成元年頃から暴力団と化した任侠団体の換金利権を剥奪する動きが始まります

換金絡みの利権を失う事を恐れた暴力団側と三国人側の抗争が1991年(平成3年)に各地で勃発し多数の死者が出ています

大阪や一部地域でパチンコ店の出店を防止する条例などがあるのもこのような歴史が関係しています

しかし、任侠団体を排除した事で三点方式の根底が崩れてしまいます

そこで、警察は、警察OBを換金の元締めにしてお菓子組合を問屋に加え昭和35年大遊連を母体として大阪府遊技業協同組合を設立

昭和37年社会福祉事業協力会を設立し戦争未亡人や老人の雇用に貢献したり、社会福祉活動を積極的に行います

このような歴史的背景から三国人は、日本国において【特別な権利】がある訳です

そして、それを認めなければ紛争は更にエスカレートして今の日本がどうなっていたか?

三国人は、大きく分けて3つ産業を牛耳り、2つの権利を行使します。

・パチンコ産業(グレー業界)

・貸金業(グレー業界)

・芸能界(グレー業界)

・特別永住資格

芸能界と人種差別などを背景にパチンコ店のグレーに踏み入る事の無かった社会だが

インターネットの普及により、コンプライアンスが取り出されるような時代になり、パンドラの箱が次々と開いているのが現在かもしれませんね

特別永住者とは

戦前から日本に在留している在日韓国人・朝鮮人・台湾人の法的地位の安定化を図る為、「入管特例法」を根拠とする法的地位です

特別永住権の経緯と背景

戦争中に韓国・朝鮮・台湾などの日本の占領下で日本国民とされた人たちが、敗戦後1952年のサンフランシスコ平和条約により

朝鮮半島・台湾等が日本の領土ではなくなったことに伴い、日本国籍を離脱した在日韓国人・朝鮮人・台湾人とその子孫について

日本への定住性を考慮し、永住を許可するものです

昭和27年(1952年)4月28日=サンフランシスコ平和条約発効日

■統計

「特別永住者」の地位に相当する外国人の割合は、戦後~昭和30年代までは全体の90%近くを占めていましたが

「特別永住者」の数自体の減少と新たに来日する外国人の増加により相対的に低下傾向にあり、「特別永住者」の総数はさらに下降すると考えられます

逆に「入管法」上の「永住者」の在留資格は一貫して増加傾向にあり、外国人登録者数は平成19年に「永住者」が「特別永住者」を上回りました

【人気記事】

悪用厳禁!〇〇で人を動かせば集客倍増

フォロワーが爆アガるSNSの科学

たった1日で仕事と人生がもっと豊かになる方法

 

 

投稿日:
カテゴリー: 未分類

作成者: OSAMI MATSUDA

1977年愛知県生まれ父の経営する建設業に就職するも父とそりがあわず退社しパチンコ業界へ華麗なる転職 東海地区大手チェーン店に腰掛けのつもりで入社するも、気づけば、店長、エリア長、最高幹部を歴任、遊技機転売、購入、サークルK、ファミリーマート、ハウスクリーニング事業のスタートアップを次々と成功させてパチンコ事業とは別にスタートアップ部署を立ち上げスタッフ15名を育成し年間15億の利益を出すまでに成長させると同時にパチンコビジネスでも1000台クラスの店舗を全国一番店に導いた事で満足して退社 人生100年時代 折り返しの時間を何か困っている人の為に使いたいと考え、これまで培ってきた集客スキル、増客スキル、スタートアップノウハウのアドバイスを中小企業を中心に行う【丸投げできる集客コンサルタント事業】を開業 多くのクライアントが抱える集客の悩みを解消し世の中の為になる仕事が出来ている事に幸せを感じている今日この頃 このノウハウをもっと多くの人に共有すべく2022年1月に【集客の知恵ブログ】を開設